伏見稲荷大社の不思議(1)

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7月に入り、京都市は梅雨も後半となりました。京都市内はいつも観光客でごった返していますが、梅雨の時期(6月後半から7月前半)と2月の寒い時期は比較的観光客が少ない傾向があります。

梅雨の時期は雨ばかりでは出歩いて観光できないですからね。( ただし、祇園祭が本格化する時期はまた人が増えますが・・・ )

さて、今回は外国人観光客で大人気の「伏見稲荷大社」を紹介します。
ひとくちに伏見稲荷とは言っても、実はとても広く、稲荷山全体に建立された社の数は途方もない数になります。皆さんがニュース等でよく見てイメージする華やかな楼門や本殿、千本鳥居はその稲荷山のふもとの賑わっている稲荷大社のごく一部にすぎません。

 しかし、本当の伏見稲荷はその先にあります。
 千本鳥居の先、奥の院の先に広がる広大な稲荷山。 1周4kmの稲荷山の「お山巡り」 。それを踏破したとき、あなたは、もはや一の鳥居をくぐったときのあなたとは違ったあなたになっているはずです。それまで持っていた伏見稲荷のイメージは恐らく跡形もないでしょう。

 ライトな観光客からディープな稲荷信仰者まで、今も昔も大人気の「伏見稲荷」です。

 ここでは複数回に渡って写真で伏見稲荷を紹介していきますが、やはり「百聞は一見に如かず」です。ぜひ、伏見稲荷のその底知れぬパワーを体感すべく現地を訪れてみてください。

注:本記事は2013年に執筆した記事をベースに再構成したものです。使用している写真等は2013年当時のものを含みます。

はじめに

 日本には「八百万の神(やおよろずの神)」がいるとされ、神を祀る「神社」が大小含め約9万社あるとされます。そのうち約3万社が「稲荷神社」と言われています。 日本の津々浦々にまで行き渡ったその稲荷神社の総本山が、ここ「伏見稲荷大社」です。 皆さんの近所にもきっと「おいなりさん」、「稲荷神社」があるのではないでしょうか?

  伏見稲荷大社 に祀られているのは五穀豊穣・商売繁盛・産業興隆といった農工商業の神でありますが、家内安全・交通安全・芸能上達などにもご利益があると言われています。

 伏見稲荷は平安遷都以前にこの地域を支配していた「秦氏」の祭神として祀られたのが始まりですが、平安時代以降、天皇から貴族、庶民に到るまで絶大な人気を誇る神社となり、現在でも初詣客をはじめ、外国人観光客がとても多いことでも知られています。

 この伏見稲荷大社がなぜ人気の神社となり得たのか?なぜたくさんの社が林立するようになったのか?祀られている数多くの祭神同士はどういう関係にあるのか?
 これら疑問を解決すべく、世界でも稀な景観を持ち合わせる伏見稲荷のお山を巡ってみたいと思います。

伏見稲荷大社の概略

 伏見稲荷大社は京都市伏見区深草にある稲荷神社の総本山であり、これは前述のとおりです。

 京都・東山36峰の南の端にある稲荷山のふもとに鎮座するのが稲荷大神、通称「お稲荷さん」になります。稲荷山は古くは「伊奈利山」と記述されていました。古来より深草あたりは湿地帯でしたが、土地の豪族が中心となり、稲作が盛んに行われるようになりました。そして、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられたと言われています。つまり、稲荷大社のルーツは、この地を治めていた有力豪族達の土着神、農耕神を祀る神社なのです
 その豪族は秦氏であったり賀茂氏であったり荷田氏であったりと文献によっても様々ですが、いずれの社も稲荷山で見ることができます。

 伏見稲荷のはじまりですが、一般的には「宇迦之御魂神(うかのみたまのおおかみ)」をはじめとする稲荷三神が降臨した稲荷三ヶ峯(稲荷山の頂上付近)に秦氏が社を建立したのがはじまりとされています。
 その後、本殿は今の位置に遷移されましたが、三ヶ峯はそれぞれ「神蹟地」として信仰されるようになります。
 稲荷信仰者達はご利益を得るために標高233mの稲荷山の頂上を目指します。この稲荷山の神蹟地を一周することを「お山巡り」と呼びます。今でいうとトレイル、登山、昔はもう少し足場も悪かったので「修業」のようだったかもしれません。
 古くは平安時代からおこなわれているその「お山巡り」の足跡を今回、JR「稲荷」駅を起点に歩いてみたいと思います。

 下の図は稲荷山全体の案内図になります。図の下の方にある「本殿」を中心とする一帯が狭義の「伏見稲荷大社」です。その他にある「〇〇社」というのが関連の代表的な神社です。
 「伏見稲荷大社」 の末社や摂社もありますし、後述しますが、全く無関係の社もあります。
 稲荷山はこういった神社のテーマパークでもあるのです。

 それでは早速出発しましょう。

 第1回は最寄り駅のJR稲荷駅を降り一の鳥居から入って伏見稲荷大社本殿周辺を紹介します。

JR「稲荷」駅と京阪「伏見稲荷」駅

 伏見稲荷に電車でアクセスする場合はJR稲荷駅もしくは京阪の伏見稲荷駅を利用します。京都駅から来る場合はJR奈良線で京都駅から2駅で到着します。片道5分、運賃は140円です。

 JR「稲荷駅」です。表参道の正面に位置しており、通りを渡るとすぐ一の鳥居です。

  尚、駅の隣にコンビニがあるので、食料や飲料はここで調達すると良いでしょう。稲荷山に入るとペットボトルのお茶なども「お山価格」となり、値段が高くなります。

JR稲荷駅

 下の写真は京阪「伏見稲荷」駅です。もうひとつの参道、神幸道を進んだところにあります。大阪方面から来る場合は京橋から丹波橋まで特急で来て、丹波橋から乗り換えて4駅で到着します。

京阪 伏見稲荷駅

 伏見稲荷大社の入り口はひとつではなく、京阪伏見稲荷駅を利用する場合はひとつ北側の参道、神幸道(北参道)から向かいます。
 車で来る場合は一の鳥居のすぐ右(南)に駐車場入口があります。ただし、伏見街道(本町通)は南から北への一方通行ですので、北側から来る場合は師団街道もしくは国道24号線を南下し、龍谷大学前の第一軍道を東進し、本町通を北上する必要があります。

一の鳥居

 JR稲荷駅を降りると正面に朱色の大きな鳥居が見えます。伏見稲荷大社の表玄関である「一の鳥居」です。伏見街道(本町通)に面しています。
  前述のとおり、伏見稲荷大社のある稲荷山をぐるりと巡ることを「お山巡り」と呼びますが、ここが「お山巡り」の出発点になります。

2013年の一の鳥居

 尚、上の6年前の2013年6月の写真です。当時はそれほど外国人観光客も多くなかった印象です。

2019年の一の鳥居

 そして、2019年7月の一の鳥居です。梅雨の時期で人が少ないと思いきや朝9時の時点で既に人であふれています。
 最近は特にアジア系の観光客が多く、日本人は逆にまばらです。ここ数年で訪れる客層がガラリと変わりました。

 以後、2013年の写真と2019年の写真を混ぜて掲載しています。経年変化が少ないと判断した箇所については程度の良い2013年の写真を用いています。

一の鳥居と朱色

 下の写真は参道から一の鳥居を見たものです。
 全国の稲荷神社、及び伏見稲荷大社にある鳥居は「稲荷鳥居」と呼ばれており、鳥居の上部、2本の柱と島木(しまぎ)との間に円状の台輪(だいわ)が入っており、柱の下部は黒塗り板木で巻かれています。

 伏見稲荷の鳥居は、そのほとんどがシンボルカラーの朱色で染められています。朱色は「生命」「躍動」をイメージし、邪気を祓い、幸福を呼び寄せる色とされています。
 鳥居の多くは「杉」で製作されており、伏見稲荷の中には御神体に「杉」を祀っている社も多くあります。
 鳥居の表面には「光明丹(こうみょうたん)」という丹(水銀)を油で溶いたものを何度も重ね塗りをし、虫や腐食を防いでいます。一度製作、奉納されると、その鳥居は20年はその姿が永続するとされ、人々の信仰の証として稲荷山に鎮座し続けます。

下の写真は2019年のものですが、コンビニ「デイリーヤマサキ」の看板が京都カラーに変更されています。京都市景観条例の一環です。

霊魂社 藤尾社 熊野社

 伏見稲荷には大小さまざま多くの摂社が存在します。
 表参道から楼門までの間にも摂社があり、右から「霊魂社」「藤尾社」「熊野社」です。
「藤尾社」「熊野社」は伏見稲荷大社より以前にこの地に祀られていた神と言われています。
奥のビルは八芒星の形をした伏見稲荷大社の会館「儀式殿」です。

表参道と参集殿

一の鳥居から二の鳥居までは石畳が続きます。奥に見えるのが二の鳥居と楼門です。
以前は表参道から車で参集殿前の駐車場まで移動できましたが、現在は南側に車専用の道路が設けらています。

上の写真は参集殿です。伏見稲荷大社の宿泊施設です。他にもイベントが行われたり、休憩所や食堂もあります。

楼門

表参道を進むと伏見稲荷の表玄関の大門が見えてきます。
桧皮葺屋根、コントラストの強い朱色の二層入母屋造りの楼門です。
この楼門は天正17年(1589年)、豊臣秀吉により造営されました。
天下統一を果たした秀吉は伏見稲荷の南、今の桃山地域に伏見城を構え、その城下町は大変栄えました。

 伏見城と伏見稲荷は距離が近いこともあり、秀吉は稲荷信仰を深め、母・大政所の大病平癒を祈願し、成就すれば一万石を寄進すると約束しました。
祈祷の結果、大政所は回復し、秀吉の寄進により楼門をはじめとする社殿の本格的な修復が行われ、現在我々が見る楼門はこのとき建立されました。
その後、昭和49年(1974年)、平成22(2010)年に修復されています。楼門前の一対の狐の像は御祭神の御霊である宝珠と鍵をくわえています。

楼門の左大臣と右大臣

寺院の大門には阿吽の仁王像が出迎えてくれますが、神社では2体の阿吽の大臣が迎えてくれます。
向かって右側が口を開いた阿(あ)形の左大臣(写真上)、向かって左側が口を閉じた吽(うん)形の右大臣です。矢大臣とも呼ばれます。(写真下)

境内の内側から見た楼門です。桃山様式を取り入れた迫力のある朱色の門は京都屈指の楼門です。

外拝殿

 楼門をくぐると正面に見えるのが外拝殿です。
伏見稲荷大社の拝殿には内拝殿、外拝殿と2つの拝殿があります。

 内拝殿は一般のお参りに使われ、外拝殿は2月の節分祭で使われ、ここから豆がまかれます。

楼門と外拝殿です。外拝殿も秀吉により、楼門と同時期に造営されたと言われています。

内拝殿

内拝殿です。
1694年(元禄7年)の造営とされています。
大きな朱色の唐破風の向拝が特徴的で、1961年(昭和36年)に内拝殿に取り付けられました。これと似た唐破風が、同じ伏見区の桃山大手筋にある御香宮神社の社殿にも取り入れられています。秀吉が好んだ極彩色の唐破風が桃山調と言われる所以でもあります。


拝殿に至る石段の両脇には1対の狛狐が安置されています。

良く見ると菊の紋が入っていますね。天皇家との繋がりもあるのでしょう。以後の回で出てきますが、稲荷山の社の中には菊の文字が入った社が多数あります。例えば白菊大神はここの主祭神の別名であり、伊勢大社との繋がりを彷彿とさせます。

本殿

本殿は、 応仁の乱で焼失した後、1499年(明応8年)に復興された檜皮葺きの社殿で重要文化財に指定されています。
本殿は祭神五柱を祀るため一間社流造の社殿を五つ横に並べた五間社とした流造です。
そのため幅の広い社殿になっており、また流造の屋根は全面と背面で均等ではなく、背面に比べて前面がかなり長く伸びています。


祀られているのは上ノ社、中ノ社、下の社の3柱と田中社、大八嶋社の2柱です。 向って左(北)から以下の順で祀られています。

最北座 田中大神 たなかのおおかみ 権太夫大神 田中社
北 座 佐田彦大神 さたひこのおおかみ 青木大神  中ノ社
中央座 宇迦之御魂大神 うかのみたまのおおかみ 白菊大神 下ノ社
南 座 大宮能売大神 おおみやめのおおかみ 末廣大神  上ノ社
最南座 四大神 しのおおかみ 大八嶋大神 大八嶋社

※四大神とは、異なる四柱だとする説、一柱だとする説があります。
表の一番右の列は神の別名であり、 神々が祀られた社が稲荷山に点在します。これら「神蹟地」を巡る旅がお山巡りとなります。

以上の五柱を総称して稲荷神と呼ばれています。どれが主祭神ということはなく5柱平等です。
従って、上記のように社殿は5つに分かれている相殿となっているのです。
また、祭で使われる神輿も5基あり、稲荷祭りに行われる氏子祭りではそれぞれ5地区の氏子が担当の神輿を担いで祭りを盛り上げます。

本殿横には御朱印の受付やお守り等の販売もされています。

権殿(ごんでん)

 本殿と同じ五柱の相殿で、本殿を改築するの際の仮御殿として使われます。
そのため「ごんでん」ではなく「かりどの」と呼ばれたり、遷殿や若宮とも呼ばれます。

荷田春満旧宅

 外拝殿、楼門の南に「荷田春満旧宅」があります。
荷田春満(かだのあずままろ,1669〜1736)は伏見稲荷の神官荷田家に生まれました。しかし、神職は継承せず、古典研究に没頭し、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤とともに国学四大人に数えられるようになります。その旧宅が現在は「荷田春満旧宅」として国指定史跡となっています。尚、稲荷山の頂上付近、二の峯と三の峯の間にある間の峯(あいのみね)には、荷田家の祖神を祀る荷田社があります。

東丸社

「荷田春満旧宅」に隣接しているのが東丸神社(あずままろじんじゃ)です。
東丸神社は、明治十六年(1883)に、伏見稲荷大社の宮司らが寄付を募って創建した神社です。
ここには荷田春満にあやかろうと学問向上や受験合格を願う多くの方々がお参りに訪れます。

びっしり規則正しく並んだ絵馬と千羽鶴です。きっとご利益があるのでしょう。合格祈願の執念を感じさせます。

以上が「伏見稲荷大社」の境内になります。
本殿後ろのこの鳥居をくぐると境内から外れ、千本鳥居の方面に続きます。
本殿だけ参拝されて帰る方もいらっしゃいますが、観光客の皆さんは後の千本鳥居まで見られて帰る方が多いようです。

第1弾はここまでです。次回に続きます。