琵琶湖疏水の建設は京都復興に無くてはならない大事業だった

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京都市に暮らしていると琵琶湖疏水(びわこそすい)という言葉をよく聞きます。琵琶湖疏水とはその名の通り滋賀県の琵琶湖の水を隣接する京都市まで引き込んだ運河の事です。

この琵琶湖疏水は「疎水」と「疏水」の二つの漢字がありますが、正式には「疏水」のようです。英語ではどちらもCanal(運河)と訳されます。つまり人工の水路を表す言葉になります。

今は観光名所のひとつとして国内外から多くの観光客が訪れており、桜の名所である岡崎エリアや山科エリア、蹴上インクライン、南禅寺の水路閣など、今や京都を代表する景観のひとつとなっています。

今回はこの疏水について、以下の疑問について調べてみたいと思います。

 ①いつ頃造られたたものなのか?

 ②何の目的で造られたのか?

 ③誰が造ったのか?

 ④どういった技術で造られたのか?
  特に京都と滋賀の間は山があり、そこにトンネルを掘って水を通す必要がありました。
  どのようにしてこの距離を掘削したのでしょうか?

 ⑤総工費はいくら必要だったか?

いつ頃造られたものなのか?

疏水が造られたのは明治時代初頭になります。明治政府号令の下、首都が京都から東京に変わり、権力の無くなった京都に活力を取り戻すため、時の県知事が国家の一大事業として疎水の建設を訴えました。

技術的、政治的な難題を乗り越え、明治18年(1886年)6月に起工式がおこなわれ、明治23年(1890)3月に工事を無事完了し通水式がおこなわれました。疏水の工期は約5年です。今から130年前の出来事です。

何の目的で造られたのか?

当時、京都は東京遷都により力を失っており、街にも活気がありませんでした。

そこで、京都を再生し、先端の技術で街に活力を取り戻すため、以下の目的で疏水が造られることになりました。


・運河通船による物資輸送
・発電による工業の発展
・灌漑
・精米のための水車の動力
・防火用水の確保
・生活用水 (飲料など)の確保

水の力による水運と発電による街の電化はその後、京都の再生の原動力となりました。

誰が造ったのか?

疏水完成の立役者は、時の京都府知事である北垣国道(きたがき くにみち、1836年~1916年)です。

京都府3代目の府知事として1881年~1892年の在任期間中に京都市民の長年の夢だった疏水を計画し、見事にこの一大事業を成し遂げました。

北垣国道の銅像

疎水の土木建築責任者は田辺朔郎(たなべ さくろう、1861年-1944年)が担いました。
当時、工部大学校(後の東京帝国大学工学部)の学生であった田辺は、卒業論文のテーマが琵琶湖疏水の計画と設計ということで北垣の目にとまり、若くして土木責任者に抜擢されました。

田辺は、疏水の工事途中である1888年(明治21年)に高木文平とともに土木技術獲得のために渡米し、水力発電の技術を日本に持ち帰ることに成功しました。この技術により疏水の流れを利用した蹴上発電所が設立され、日本初の電気鉄道をはじめ、京都の電化に大いに寄与しました。

どういった技術で作られたのか?

疏水の完成のカギは、水路の入り口となる大津市と京都市の間の山間部に如何にしてトンネルを掘って水路を通すかということでした。当時の日本の技術力からすると、かなりの難事業でした。

トンネルの掘削の方法に関しては、すでにノーベルによりダイナマイトは発明されていたので、ダイナマイトで岩盤を爆破して掘り進めるという作業方法が使えたため、従来の手堀りよりはかなり効率的でした。

ただし、穴を掘ると湧水が出るためそれを排水する必要があります。現在は電気の力でポンプで吸い上げればよいですが、当時は電気がまだ普及しておらず、人力での汲み上げ作業でした。電気が使えるようになるのは疏水が完成してその下流の発電所で発電が出来るようになってからです。

この掘削に関して最大の難関は滋賀県大津市から京都市山科区に抜ける全長2.4㎞の第一隧道の掘削でした。2.4㎞の長さは国内でも当時最長であり前例の無い技術的も難しい難作業でした。この難しい作業を円滑に進めるため、また、工期も短縮するため、大津側と山科側の両側から掘る工法ではなく、中間地点に垂直に竪坑を掘り、そこからも東西に掘り進めるという工法が取られました。

そのため、数kmという大工事にも関わらず、工期わずか5年で完成という当時の技術力からするとかなりの偉業を成し遂げたのでした。この時期の日本の土木技術の発展には目を見張るものがあります。

総工費はいくら必要だったか?

京都府の算出した総工費は、当時の金額で約60万円でした。明治30年の1円は、今の2万円に相当するとのことなので、50万円は今の価値に換算すると120億円ということになります。

明治初頭の120億円は莫大な金額です。どのようにして賄ったのでしょうか?

資料によると、約半分の30万円を東京遷都の代償金である産業基立金から、残り半分は政府補助金と市民の賦課金で賄ったということです。

明治の遺構は今も市民の憩いの場

琵琶湖疏水は、明治時代に造られた京都復興の狼煙であり、その後、京都は見事に復興していきます。現代の京都があるのも、これら困難に立ち向かって事業を成し遂げた北垣知事を始めとする素晴らしい指導者のおかげとも言えます。

夷川発電所

1989年(平成元年)8月9日には琵琶湖疏水の完成100周年を記念して琵琶湖疏水記念館が開設されました。
場所は京都市動物園のすぐ隣です。疏水にまつわる資料が展示されており、2007年11月に所蔵資料は琵琶湖疏水とともに近代化産業遺産に認定されました。

京都市営地下鉄東西線 蹴上駅から徒歩7分と近いので、興味がある方はぜひ見学されることをおススメします。 京都の近代の歴史の出発点である疏水の歴史をじっくり学ぶことができます。また、疏水に沿ってインクラインや水道橋、夷川発電所などを見学もでき、春や秋の美しい疏水沿いを堪能できます。